楊貴妃|【中国特集】情熱大陸中国へ

天にあっては比翼の鳥となり、地に合っては連理の枝とならん

理性を惑わすほどの罪作りな美

中国の歴史上、唐の時代は最も偉大な時代とされ、第6代の玄宗皇帝は民の信頼を一心に得た皇帝として知られています。万民を思い、民のために行われた玄宗の治世は、非常によく治まり安定した時代で、中国を世界に冠たる大帝国にしたのです。ところが、玄宗は晩年になって人が変わったように政治を顧みず、国を滅亡寸前にまで追い込んでしまいました。その歯車を狂わせたのが、絶世の美人楊貴妃だったということはあまりにも有名です。

愛されてますます美しくなる

楊貴妃(本名:揚玉環)は、蜀(四川省)の下級官吏の娘として生まれましたが、父が早く亡くなり、おじに育てられました。成長するにつれ、そのたぐい稀な美しさは周囲に知れ渡り、17才のとき玄宗皇帝の息子、寿王の妃として迎えられたのです。一方、当時56歳の玄宗は、最愛の妃を40才の若さで亡くし、気を落としていました。そこで、部下の高力士が、後宮に仕えていた3千人もの宮女の中から、亡き妃にそっくりだと楊貴妃を紹介したのでした。


楊貴妃像

楊貴妃墓

740年秋、華清池という長安郊外の温泉で、玄宗は初めて楊貴妃と会い、たちまち虜になってしまいました。楊貴妃22才。玄宗とは34才もの年の差がありますが、音楽や舞踏に精通していた芸術肌の玄宗は、楽器も踊りも歌声も天下一品と言われる楊貴妃と気が合ったようです。しかし、息子の妃をそのまま自分の愛人にしてしまったのではいくら皇帝でもまずいので、玄宗はまず、楊貴妃を道教の尼にしたのです。それから4年後の春、後宮の宮女3千人の中での最高の位である貴妃の称号を与え、公式に迎え入れました。

こうして約10年におよぶ甘美な寵愛の時間が始まったのです。二人は温泉の湧き出る離宮に住み、日々宴会や歌舞に明け暮れ、豪華絢爛の日々を過ごしました。楊貴妃は自分専用の浴室で入浴した後、よく玄宗の前で踊りを披露したそうです。その時の楊貴妃の美しさと玄宗の細かな愛情は『長恨歌』に描写されています。

亡国を招いた「傾国の美女」

玄宗は、楊貴妃が望むことなら何でも叶えました。どれほど人民が苦しみ、公務が妨げられようとも、愛する妃以外は目に入らず、民衆や政治などどうでもいいことになってしまいました。一方、楊貴妃のおかげで大出世した揚氏一族は権力をかさに横行を極めました。こうして人々の不信と不満が広がり、ついに対立派の安禄山が挙兵。わずか数ヵ月で揚氏一族は皆殺しになり、民衆の怒りの矛先は楊貴妃に。偉大な唐の王室を守るため、玄宗にとっては自らの死よりも辛い決定を下さねばならなりませんでした。そして玄宗は最愛の楊貴妃に死を命じたのでした。それは、楊貴妃が玄宗の寵愛を受けはじめて10年後のこと。こうして玄宗と楊貴妃の甘い蜜のような愛の生活は終わったのです。

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